長江、洞庭湖の南に位置する湖南省の省都長沙は現在人口700万人程の大都市となっております。
長沙は春秋時代に楚の領地となって以来既に2500年以上の歴史を持つ街で中国の国家歴史文化名城にもなっています。
また清末以降優秀な人材を輩出したことでも有名であの毛沢東は長沙の南約100Km程の場所にある韶山の出身です。
最高地点300mの山で長沙を流れる湘江の西側、中国五岳の一つに数えられる衡山(別名南岳)の麓にあるということで岳麓山と命名されました。 岳麓山の特徴としては道教、仏教、儒教の3つの宗教が混在していることで麓に儒教の岳麗書院、山腹に仏教寺院、山頂に 道教の雲麗宮などがあります。また、中国四大名亭に選出される愛晩亭も見所の一つで【愛晩亭】の文字は毛沢東の直筆で書かれています。 山内にはロープウェイや遊覧バスなども整備されています。
北宋の開宝年間の976年、潭州太守朱洞が創建した学問機関です。朱熹と張拭が講義を行った南宋代に最盛期を迎え 当時は1000人以上の受講者がいたといいます。敷地内には講堂や御書楼、大成殿などがありますが、現存する物はほとんど清代に 再建されました。また、朱熹によって書かれた「忠孝廉節」四文字の石刻、乾隆帝の扁額「道南正脈」などがあります。 ここで学んだ有名人は清末の曽国藩、左宗到棠、陳天華などがいます。
1956年にオープンした湖南省博物館は収蔵品は18万点にも及ぶ大規模な博物館です。 2012年6月より改修工事を実施し、2015年までは閉館予定です。
長沙市街の高台に建つ楼閣で登ると長沙市街を一望できます。創建年は不明ですが、 平天国の乱の時には太平天国軍と清朝の激戦が舞台となり、辛亥革命の時代には同盟軍が長沙分会を設けた場所でもある。 紅軍が長沙に進行したときに彭徳懐は、ここに司令部を置かれました。
1972年長沙の東8Km付近で発見された前漢初期の長沙国の宰相利蒼の墓です。高さ10m、周囲30mあり、 もともとは五代の楚王の馬殷の墓と考えられていたため馬王堆漢墓と呼ばれています。 一号墓は妻の辛追、二号墓は利蒼、三号墓は息子が埋葬されていました。中でも注目されたのは辛追の遺体は 2100年前のものであるにもかかわらずほぼ完璧な状態で残されていました。その遺体や副葬品の多くは現在湖南省博物館に移されています。
長沙より約100Kmの韶山にある毛沢東の実家です。毛沢東は1893年12月26日に生まれてから 17年間をこの家でで過ごしました。 毛沢東の曾祖父が小さな藁葺きの家を買い取り、その後三代で部屋数十三の家屋を持つ大きな家となりました。 親夫婦の部屋、三人の兄弟の部屋など 置かれている家具などは当時の物をそのまま使用し、その配置などに至るまで忠実に当時を再現しています。 また故居より500mほどの場所には毛沢東記念館、毛氏宗祠などがあります。 この辺り一帯は毛沢東故居だけで無く、韶山風景名勝区となっており、清渓景区、滴水洞景区、故居景区、韶峰景区と4つに分けられ 滴水洞景区には毛沢東が文革時に故郷にもどり活動拠点とした指揮所や防空壕などが残されています。韶峰景区はリフトで山頂まで登り 周囲の山々の眺望を楽しむことが出来ます。
劉少奇の故郷です。彼はモスクワ留学を終え帰国後に共産党に入党、労働運動を展開し革命を成功させ国家主席まで登り詰めましたが、文化大革命で毛沢東により 失脚させられてしまいました。そんな数奇な運命を辿った劉少奇の故郷で故里内には劉少奇故居や記念館、銅像広場などの見どころがあります。
中国五岳(他は山西省恒山-北岳、陝西省崋山-西岳、河南省嵩山-中岳、山東省泰山-東岳)の一つとして有名なのがこの衡山(南岳)です。 長沙より南へ約80Km、衡陽市に位置する72の峰を持つ景勝地です。最高峰は祝融峰1290mです。古くより山岳信仰の対象とされ、 仏教や道教の修行の場とされ、山内には福厳寺(仏教)、黄庭寺(道教)など1000年以上の歴史を持つ寺院もあります。
長沙-北京 |
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