宜昌は三峡(重慶から順に瞿塘峡、巫峡、西陵峡)の最後、西陵峡を出たところに開ける人口400万人程の都市で、古来より水運や軍事の要衝として栄えて来た場所です。 古くは夷陵と呼ばれ、三国時代、劉備玄徳が関羽の仇を討つため呉を攻め大敗を喫し白帝城に逃れた「夷陵の戦い」でも有名です。 付近には三国志にまつわる観光スポットも多いです。 重慶からの三峡下りの乗客の大部分は宜昌で下船します。現在では新三峡ダムの街としても有名です。
宜昌から北西約10km、西陵山の絶壁に西陵峡 を臨む深さ約30m、高さ約10m、幅約20mの洞窟です。 唐代の詩人白居易が弟の白行簡と友人の元慎とともにここを訪れ、それぞれ詩を詠みました。 その後、宋代には文 学者・蘇軾、蘇洵、蘇轍の父子3人もここを訪れ、唐代の「前三遊」 に対し、「後三遊」と呼ばれています。景区内には三国志関連の遺跡である劉封城遺址や張飛が兵士の訓練をする為に台を作って 太鼓をたたいたとされる擂鼓台があります。
夷陵の戦いで蜀軍が陣を構えた場所です。劉備玄徳が蜀の70万人大軍を率い、関羽の仇を討つために、呉の国を討伐 に出軍したが、呉の若い将軍、陸遜の『火焼連営七百里』の計策に大敗された名場面で有名な場所です。
『三国志演義』第四十一回、「劉玄徳、民をたずさえ江を渡り、趙子竜単騎にして主を救う」の段、 趙雲が阿斗(劉禅)を救い出す名場面の舞台となった場所です。劉備玄徳は荊州を追われ、数十万の避難の民と三千の軍隊で南の江陵へ向かう。 それを追う曹操は長坂坡で追いつかれました。ここで、趙雲(子竜)は、はぐれた劉備玄徳の乳飲み子・阿斗を抱いてを陣中に探し、 さらには懐に抱え、囲みを血路を切り開いて生還するという話です。
関羽の陵墓です。 219年、関羽は麦城で孫権軍に捕らえられ、孫権の降服の勧めを拒否して首をはねられました。 その首は孫権と同盟していた曹操に送られました(洛陽の関林)。その胴体がここに埋められました。
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