上海の概要

 上海は1842年アヘン戦争後に締結された南京条約により対外貿易港として開港され、貿易港として発展してきました。 現在の上海は、中国の四大直轄市の一つであり、面積は6340.5ku(群馬県と同じくらいの面積)、2011年5月現在の常住人口2300万人(東京都の約2倍)を超える世界でも有数の大都会です。 上海は中国最大の工業基地であり、商業、金融、貿易、通信、文化、流行の中心でもあります。 中国の最先端を行く大都市上海の財政収入は全国の8分の1を占め、上海市及び上海市民の経済力は突出していると言われます。 そのような上海は当然日本との経済的つながりも強く、駐在している日本人も極めて多いことでも知られています。 多くの方にとっては旅行の街というよりはビジネスの街というイメージが強いかも知れません。


高層ビルが林立し、リニヤが既に運行され、13の地下鉄網(開通しているのは11路線)を持ち、世界のファッションブランドのほとんどがここに店を構える 超近代都市であります。しかし、上海はただ近代的というだけでは無く、外灘付近には欧米列強の租界時代の欧米風建物が今も残りノスタルジーを感じさせてくれる街でもあります。 租界時代の名残で西洋風のレストランやバーが各地に点在すれば、中国各地の超一流の料理も口にすることも出来ます。 また、少し郊外に足を延ばせば七宝や朱家角など田舎の素朴な水郷古鎮もあります。上海は新と旧、東洋と西洋、都会と田舎そのどれもを持ち合わせる街とも言えます。

上海の気候

上海の気候は温暖湿潤気候(Cfa)に属し、年間平均気温は16.1℃。最も寒い1月の平均最低気温は1.1℃、最も暑い7月の平均最高気温は31.8℃となっています。 東京とよく似た気候で冬は乾燥し夏は蒸し暑いです。


上海の行政区分

上海の行政区分は以下のように18の区と1つの県に分けられています。


上海の歴史

・1842年 アヘン戦争後の南京条約により対外貿易港として開港される。
・1845年 イギリスが上海の土地を租借
・1848年 アメリカが上海の土地を租借
・1849年 フランスが上海の土地を租借
・1854年 英・米・仏が行政を統一して租界となる
・1861年 フランスは単独の租界を設置
・1863年 英・米の租界は国際共同租界となる
・1865年 香港上海銀行が設立される。欧米金融機関の上海進出の契機となる

租界では行政権と治外法権が認められ、共同租界では工部局 (Board of works) 、フランス租界では公董局が設置され、工部局と公董局は道路・水道などインフラの建設・管理、警察・消防などの行政自治権を行使するようになっていった。 さらに、1865年にはイギリス系の香港上海銀行が設立されたことをきっかけに、欧米の金融機関が上海に続々と進出しはじめた。こうして治外法権を認めた清政府の施政権もほとんど及ばない状態になり、変わって現れた英米仏の西洋文明を受け入れながら上海は変容していった。共同租界ではバンド地区や南京路を中心に、フランス租界は淮海路を中心に西洋街が建設された。

租界の発展

・1851-64年 太平天国の乱がおこる
・1856年 アロー号事件(アロー戦争)
・1858年 天津条約締結
・1860年 北京条約締結
・1894年 日本も租界工商局のメンバーになり、虹口地区に日本領事館が開設される。
・1911-1912 辛亥革命
・1917年ロシア革命

太平天国の乱などで発生した難民が上海に多く流れ租界に逃げ込みました。 1853年租界内の中国人人口はたった500人ほどでしたが1854年には2万人、1860年には30万人、1862年には50万人に達したと言われます。 そのため当初は小さかった租界の面積も徐々に拡大されていきました。また、アロー戦争によって締結された不平等条約により治外法権を得た日本、ドイツ、イタリア などの人々も多く上海へ移住しました。 また、辛亥革命でさらに多くの中国人が租界に避難する結果となり、1930年代半ばにはなんと157万人もの中国人が暮らしていたと言われています。 上海では外国から訪れる人間にパスポートは不要であった。このため、ロシア革命後には白系ロシア人が上海に多く流入し、住み着くようになりました。 上海はこうして国内外から多くの人間が集まり、世界最先端の建築群や娯楽施設が建設され、様々な野望や娯楽、犯罪などが集まる【魔都】への変貌していきました。
華やかで退廃的なこの街は、明治という時代に窮屈さを感じていた日本の文化人たちをも虜にし、1900年初めには10万人の日本人が暮らしていたとも言われています。

租界の全盛期

上海租界の租界では基本的に人々の自由は保障されていました。 当時中国の軍閥が行っていたような思想の取締もなく、大抵のことを考え、 発言するのは自由でありましたが、租界全体をみると麻薬や売春といった行為が禁止されていたわけではなく、見過ごされることがほとんどでした。 租界ではこの地域の利権を持った外国人に迷惑がかからないのであれば大抵の「自由」が与えられていました。 このような自由は様々な人間を受け入れ上海では旧来の中国の一般常識に囚われない生活形式の変化が起こり、上海から中国へ影響を与えてい来ました。
香港上海銀行を中心に発展した上海の金融業はアジア金融の中心となり、銀行、金融は活発化し商社なども増えていきました。 商社は長江を経て内陸から流れ込む富を基に莫大な富を生みました。内陸から運ばれる様々な食料品を使い、上海を訪れた様々な国の人間が多種多様な料理店を並べるようになって行きました。 また、そこに住む豊かな人々の消費を見込みショッピングモールや百貨店のような大型販売店も増えてい来ました。
自由な発想が出来た風潮はおおくの思想誌を生み、また映画産業を発展させるきっかけにもなりました。一方で、法規制の緩さは阿片窟、売春宿、カジノなどの商売が行われる土台になり、裏社会が築かれていきました。 娯楽が豊富にあったため「上海に一度訪れたい」という魅力を作り出しました。 成功した者は黄浦江のバンドに現代的な建物を立て、最新の消費文明を享受しました。豊かになるに従ってさらに多くの外国人が訪れるようになりました。 また、中国人も仕事を求めて流入し始めました。多くの人によって産み出された莫大な富は上海に摩天楼を築き上げられました。 当時租界の人口密度は世界でも最大に達しました。また、上海はこのような独特の背景から魔都とも呼ばれるようになりました。

租界の終焉

・1932年
上海事変が勃発、日本が中華民国軍に対して空爆を行い、大日本帝国海軍の艦艇が長江を登って砲撃を始めると列強市民の利権が脅かされるようになり、 租界の議員たちは対抗行動をとらなかったため、租界は急速に力を失っていきまいた。

・1937年
日中戦争が勃発し第二次上海事変以後、実質的に日本軍の統制下に置かれるようになりました。

・1941年
太平洋戦争(大東亜戦争)が起こると日本軍は共同租界に進駐し、敵国人となった英米人は抑留され、 同時に上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は閉鎖された。さらに世界を巻き込んだ大戦となったために輸出入も滞り、 経済的インフラストラクチャーを失った上海租界は衰退した。

・1943年
南京の汪兆銘政権が公式に共同租界、フランス租界を接収し租界の歴史は終わりを迎えました。

上海の観光スポット

上海の観光スポットをご確認下さい。

サブコンテンツ
サブコンテンツ2

SECTS by 西安中信国際旅行社 MENU

Copyright (C) 2009 SECTS by 西安中信国際旅行社. All Rights Reserved.

西安中信国際旅行社有限責任公司

中国国家旅遊局授権国際旅行業務資格:L-SNX-GJ00029
住所:〒710061 中国陝西省西安市碑林区南関正街中貿広場5号2単元16階
TEL:(86‐29)8788‐1980
FAX:(86‐29)8788‐1980