厦門(アモイ)の概要

福建省の南部、九龍江の河口に位置し大小いくつもの島から成る厦門(アモイ)は人口約250万人ほどの港湾都市です。 台湾海峡を隔てて対岸は台湾であり、現在実質台湾の実行支配を受ける金門県とは最短地域が2.1Kmしか離れていません。 アモイはその良質な立地条件により明代以降茶葉などの貿易港として栄え、多くの人が商売のため海を渡りました。そのため 【華僑の故郷】などとも呼ばれています。また白鷺が多いことから【鷺島】、【鷺門】などとも呼ばれました。アヘン戦争後の南京条約(1842年)により 対外向けに開港されたアモイは1962年にイギリス租界が、1902年(光28年)にはコロンス島に共同租界が設置され、外国商社の商館が進出しました。 現在でもコロンス島には当時建てられた洋館が多く残っています。 1981年に経済特区に制定され、中国5大経済特区として中国経済の重要な役割を担っています。

厦門(アモイ)の気候

厦門(アモイ)の気候は亜熱帯性海洋気候に属し1年を通して非常に暖かいことが特徴です。一番寒い一月の最低気温の平均も10℃前後です。


厦門(アモイ)の歴史

晋代には晋安郡同安県が設置され、五代十国から宋代は泉州に属していました。明代の1387年(洪武20年)に廈門城が築かれて「厦門」という地名が初めて使用されることになりました。
明末清初の1650年(永暦4年)に鄭成功は厦門を本拠地とし思明州と命名、反清活動を行いましたが、 1680年(康熙19年)、この地を占領した清朝により思明州は廃止され、1684年(康熙23年)の対外貿易を再開に際しては
厦門は中国人商人による東南アジア貿易の拠点として繁栄し、また台湾の開発が進むにつれて台湾との貿易も増大した。
アヘン戦争では1841年(道光21年)にイギリス軍により占領され、翌年の南京条約によって外国人に対して開港、
1860年代からは茶葉の積出港として海外に知られるようになった。1862年(同治元年)にイギリス租界が、
1902年(光28年)には鼓浪嶼に共同租界が設置され、外国商社の商館が進出しました。
その後、厦門の茶葉は日本茶・台湾茶との競争にやぶれて衰退、また台湾との貿易も日本の台湾領有によって衰退していきました。
一方で厦門出身者の海外移民が増加し、大東南アジア方面からの出稼者からの送金で廈門の経済は維持されるようになりました。
また20世紀になると東南アジア華人からの投資も始まり、1935年(民国24年)、市制が施行されましたがが、 1938年(民国27年)には日本海軍が占領、1940年(民国29年)の汪兆銘政権成立後は厦門特別市が成立しました。
1945年(民国34年)8月の日本敗戦に伴い汪兆銘政権は崩壊、中華民国の行政権が回復したましたが、
まもなく始まった国共内戦の結果、1949年10月に共産党軍によって「解放」されました。
中華人民共和国成立後は、1973年に同安県を統合、改革開放政策により、1981年に経済特区が設置され、主に対岸の台湾資本を集めて経済成長を遂げてきました。
中華民国(台湾)が実効支配している金門県との間に限定的な直接交流である小三通が認められています。
華僑の出身地として現在も東南アジア各国との交流が盛んであり、タイ、シンガポール、フィリピンが領事館を置いています。


厦門(アモイ)の観光スポット

厦門(アモイ)の観光スポットをご確認下さい。



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