人口1300万人に近い広州市は中国の副省級市で、広東省の省都ということだけでなく、華南地方全体で考えても最大の都市となります。
2012年には全世界を対象にした世界都市ランクでは、中国では北京、上海に次ぐ60位にランクインされました。羊城、穂城などの略称を持っています。
広州は珠江デルタ地帯の北部、西江、
北江、東江の合流地点に位置する港湾都市で、安く安定した労働力を供給出来たことから世界のあらゆる企業がこの地に工場を作り街も発展してきました。
現在、対外貿易港として機能し、世界中で販売される様々な物の卸売市場があるため、世界の卸売市場などとも
呼ばれています。
古くからの住人が多いため、新しく出来た深センとは違い、街中では広東語が使われることが非常に多い場所です。
広州の気候は中国の気候区分による南亜熱帯海洋性季風気候であり、年間平均気温は摂氏22.8度と非常に温暖です。
一番熱い7月の平均最高気温は33.8℃、一番寒い1月の平均最低気温は11.3℃です。
広州は中国24大歴史文化名城にも選ばれる既に2,800年の歴史を持つ古都です。古代は百越の地で、秦の始皇帝が中国を統一して現在の広州に南海郡番禺県を設置したのが始まりとなります。
秦帝国の崩壊後、秦の将軍であった趙佗が南越国を樹立して自立しましたが、前漢の武帝によって滅ぼされてしまいました。
漢代には交州に属し、三国呉が広州を分置しました。古代から中国の南海貿易の中心地として発展し、唐代半ばの741年には最初の市舶司が設置され、
多数のイスラム教徒やユダヤ人やゾロアスター教徒が訪れ、外国人居留区である蕃坊もおかれたましたが、
アブー・ザイドの『東邦誌』によると878年の広州大虐殺でコミュニティーが消滅してしまいました。
唐末の黄巣の乱に際して襲撃を受けて多大な打撃を受けたが復興し、五代十国時代には南漢王国の首都となりました。
海禁政策を取った明代でも広州は南海諸国の朝貢船入港地となり、清代半ばの1757年からは広州のみが対外開放されて欧米諸国と広東貿易が行われていました。
この構図は近代に入り西欧列強の圧力に屈するまで続くことになります。
阿片戦争中の1841年には一時イギリス軍に占領され、1911年には孫文が広州蜂起を行い、辛亥革命の先駆けとなりました。
袁世凱の没落後、孫文は1921年に越秀山南麓で広州中華民国政府非常大総統に就任しました。
1924年には軍閥割拠の中国を統一するため国共合作を行い、黄埔軍官学校を設立、蒋介石が校長となり、周恩来が政治部主任を務めました。
この時期には毛沢東も農民運動講習会をこの地で開催しています。孫文没後、蒋介石の国民党は共産党と決裂し、
1927年共産党は広州コミューンを樹立したましたが、間もなく国民党軍の攻撃を受けてしまいました(広州起義)。蒋介石は1928年に首都を南京に移転しました。
1938年日本軍が占領。終戦まで占領状態が維持されます。
中華人民共和国成立後も香港に近い広州は中国の対外貿易港として機能し、毎年春秋には広州交易会が開催され続けています。
1979年、ケ小平が対外経済開放政策を取ると、深セン・珠海の経済特区を経済圏に収める広州は経済的に急速に発展を遂げて来ました。
広州の観光スポットをご確認下さい。
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